西南戦役最期の夜、城山に韻々と響きわたる琵琶の音に、薩軍、官軍ともに涙して聞き入ったと言われます。
9月24日は西郷さぁの137回目の命日でした。大祭に飾られていたのが、その名器「木枯らし」(黎明館所蔵)です。
地質学者大木公彦先生の郡山野外教室。
郡山地区は一番高い八重山に南から湿った空気が当たり、多くの雨を降らせます。地層は粘土質で水を保水し、上質な水を絶え間なく田畑に供給し、甲突川に注ぎ続けているのです。おいしいお米ができるのも納得です。
この郡山一帯から北薩は今から約300~250万年前巨大な湖が広がっていたそうです。その後八重山が隆起し、湖水は南から抜け、少しづつの地殻変動とともに今の豊かな大地となったというわけです。驚くことに250万年前の湖底の地層がみられるのです。八重山の裾野、大浦地区で砂岩層、泥岩層、珪藻質シルト岩等、はっきりみました。250万年のですよ~!
この八重山の郡山地層が伏流水を蓄え、湧水を生みだし、甲突川の源流となって鹿児島市内を潤しているのです。 これって cool?!
南日本新聞5/27付け「南風録」をみて、我が意を得たりの気持ちです。永い間私共が主張していたことが認められたようなきもちです。
確かにこのお手伝い普請は悲惨な工事であり、多くの犠牲のうえの事業でしたが、一方で薩摩藩の土木工事技術の勝利でもありました。もともと、古くから中国からの移民のなかには色々な分野で高い技術者がおり、多く召し抱えていたといいます。
甲突川の大規模な川筋直しや国分の天降川の川筋直しになどにみられるように古い時代から高い技術を保持していたことがわかります。
幕府は大藩の力を削ぐだけの理由ではなく、土木技術の高さを知っていて命じたと思われます。
下の古絵図は義久が国分に移り住んだころの絵図です。国分の中心部を天降川が流れています。中ノ島は現在の舞鶴中学校、その島のちょっと上流に山形屋があります。この後川筋直しで、今の川筋に変えられたのです。
この絵図は一部分ですが、8mX10m位あり国分の婦人グループの労作です。