5/12出水の野間之関に行って来ました。
江戸時代、峻厳な関所として名をはせた、薩摩街道出水筋の肥後境の番所である。関ヶ原合戦(1600年)前後に設けられている。その厳しさを呆れて高山彦九郎が詩を詠んだのが伝えられている。しかし一方では、斉彬公や篤姫様が通られたという痕跡もあったりして感慨深いものもあったり。そして野間之関から北へ5K、肥後との藩境(現在も県境)の境川、境橋、この辺りは昔の出水筋が整備され?雰囲気が感じられます。勿論江戸時代は橋はなく、小川なので飛び石つたいに渡ったのだそうです。
ひっとべ!2号発行
竹田神社のきつね様
上町地区は歴史の宝庫・ここがスゴイ!
先日山下さんに上町を案内して貰いました。上町は鹿児島のまち形成の魁といわれますが、いたるところにその遺跡が。島津5代貞久が1341年東福寺城(現多賀山)を築き、1387年に清水城をつくり、この頃から鹿児島のまちが段々に形成されていったといわれています。1550年に15代貴久が内城(現大竜小)にはいるや、上町一帯は武士集団をはじめ、まちの中心となりました。その後1600年関ヶ原敗戦を機に鶴丸城に移りますが、以然として高級武士団の住居地区として残りました。
こんな講釈をならべるつもりじゃなかったのです。おもいっきりディープなものが沢山あるので、紹介しきれませんので、一つだけ紹介します。
朝ぼらけのリゾート
月読神社
神の湯「紫尾温泉」
ついに会報「ひっとべ!」創刊。
2014/12/22 年末ギリギリやっとできました。年寄りの初心者の手作りですから、大目にみて下さい。この一年の締めくくりです。会報創刊全頁
ちょっと待った!ここにも産業革命遺産が!知覧の精錬所跡
知覧町、県道27号線沿い、豊玉姫神社から川辺方面へちょっと行ったところ、知覧中央浄化センターの傍、麓川河畔にそれはありました。明治末期から昭和10年まで稼働した、「宮内鉱山轟精錬所」の遺構です。明治中ごろに発見された赤石(あけし)鉱山で採掘された金鉱石をここに荷馬車で運んで製錬したということです。動力は水車、細かく砕いて水と混ぜて金を沈殿させ、最後は水銀を混ぜて高温で熱することで水銀が飛ばされ純金を採取する、という作業をすべてやっていたそうです。その後動力が電気に変わるや、役目を終えて昭和10年閉鎖となりました。元々ここは「金山水車跡」ととして、ひっそりと小さな記念碑がありましたが、高速道路の橋げたの部分にあたって、貴重な遺構の3分の1程度が発掘されました。関係者の熱意でそのまま保存されるようになったそうです。11月22日は一般公開でしたが、見学者の多いこと。整備して観光資源にして欲しいですね。
関吉の疎水溝と寺山炭窯跡に行ってきました。
恥ずかしながら、訪れたのは初めてでした。原口教授のツアーでした。登録予定の世界文化遺産、産業革命遺産の構成群の一つです。集成館事業の製鉄事業は大量の水と良質な燃料を必要としたのですが、下田の取水口から仙厳園まで延々8km引っ張ったわけです。元々関吉の疎水は元禄のころ、近辺の灌漑用水として使用されていたものを、斉彬が延長させて使わせたということです。取水口は静寂につつまれた、夏に行きたいところでした。
寺山公園の一角、森の中にひっそりと苔むして炭焼き窯はありました。近くには西郷隆盛が150名の学生と共に拓いた吉野開墾社の碑があります。碑文「きらすの汁に芋飯食い馴れ候」とあります。やっぱりせごどんです。
炭焼き窯は直系5~6m、高さ4mの石積みですが、試行錯誤の後の最後の3基目が残っています。樫や椎など堅い素材で白炭といわれ1300度の高熱を出せたそうです。昔のさつま人はスゴイ!
記念碑の碑文を読み解く原口泉教授