関吉の疎水溝と寺山炭窯跡に行ってきました。

関吉の疎水溝と寺山炭窯跡に行ってきました。

恥ずかしながら、訪れたのは初めてでした。原口教授のツアーでした。登録予定の世界文化遺産、産業革命遺産の構成群の一つです。集成館事業の製鉄事業は大量の水と良質な燃料を必要としたのですが、下田の取水口から仙厳園まで延々8km引っ張ったわけです。元々関吉の疎水は元禄のころ、近辺の灌漑用水として使用されていたものを、斉彬が延長させて使わせたということです。取水口は静寂につつまれた、夏に行きたいところでした。

寺山公園の一角、森の中にひっそりと苔むして炭焼き窯はありました。近くには西郷隆盛が150名の学生と共に拓いた吉野開墾社の碑があります。碑文「きらすの汁に芋飯食い馴れ候」とあります。やっぱりせごどんです。

炭焼き窯は直系5~6m、高さ4mの石積みですが、試行錯誤の後の最後の3基目が残っています。樫や椎など堅い素材で白炭といわれ1300度の高熱を出せたそうです。昔のさつま人はスゴイ!

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記念碑の碑文を読み解く原口泉教授

弥五郎どんはスゴイ!

弥五郎どんはスゴイ!

弥五郎どん祭りに行って来ました。まず人が多くてスゴイ!あの小さな町で(失礼)、あの沢山のプログラムをこなすのがスゴイ!午前1時、「弥五郎どんが起きっど!」と街じゅうをふれまわるのがスゴイ!岩川小学校の校標は「弥五郎どんのごっ」だそうです。スゴイ!1992年バルセロナ巨人博に参加した縁で爾来交流が続いているのだそうです。今回もバルセロナの若者が2人訪れてました。スゴイ!身の丈5mの巨人はやっぱり巨人伝説の体現者でした。スゴイ!巨人と言えば岩崎産業(株)の創業者岩崎與八郎翁の生誕地の顕彰碑をみてきました。生前もスゴかった!

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城山決戦前夜、薩摩琵琶の響きに泣く

城山決戦前夜、薩摩琵琶の響きに泣く

西南戦役最期の夜、城山に韻々と響きわたる琵琶の音に、薩軍、官軍ともに涙して聞き入ったと言われます。

9月24日は西郷さぁの137回目の命日でした。大祭に飾られていたのが、その名器「木枯らし」(黎明館所蔵)です。

 

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真珠湾攻撃の作戦は鹿屋で練られた。

真珠湾攻撃の作戦は鹿屋で練られた。
  • 真珠湾攻撃作戦は大西瀧次郎中将や源田実らによって海上自衛隊鹿屋航空基地の一室で練り上げられたということ、知ってました?それが現存しているのです。
  • あれから来年は70年。悲惨な戦争を経験した日本は世界中に恒久平和を誓いました。今日の平和と繁栄は多くの犠牲の上にあるということは私達は忘れてはいません。それにしても世界中には、なんと紛争の多い事でしょう。日本も厳しい環境に置かれていますねぇ。
  • 大隅には戦跡が未だ数多く残されています。上記の基地内の第1ビルの旧司令室、畑の中の掩体壕、民家の敷地内の地下壕電信司令室、民家の石垣に弾痕など、ほかにもあちこちに点在するトーチカ跡など。
  • 上記の一部をめぐるバスツアーを企画しました。 永遠の0ツアー
  • 真珠湾攻撃を極秘協議_130117_鹿屋海上自衛隊基
  • 鹿屋自衛隊旧庁舎
  • 串良地下壕電信司令室跡IMG_0835[1]

清楚な鹿の子百合

清楚な鹿の子百合

甑島しか自生していないという「鹿の子ゆり」が実は我が家の土手に自生していたという。

15年前引っ越ししてきてビックリ!その後一部を庭に移植して毎年楽しんでいます。今が見ごろIMG_1320[1] IMG_1322[1]

秋目の古民家

秋目の古民家

かって「007は二度死ぬ」のロケで懐かしい秋目に行ってきました。地理的な条件もあり、古民家が十数軒のこされており、NPO秋目net.の方々が専門家を交えて案内して下さいました。明治初期から昭和初期まで興味深く見学できました。

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茅の輪くぐりと夏そば

6/30(月)好天に恵まれ、志布志ツアーは楽しいものになりました。安楽山宮神社の神事「茅の輪(ちのわ)くぐり」で半年の穢れを祓い、そして夏そば(鱧天付き)が振舞われました。コシのあるそばが新鮮でした。地元の観光協会、ボランティアのお気遣いに感謝。IMG_1253[1]

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読売新聞 7/1付け記事より

IMG_1268お目当ての昼食は味人膳(あじぜん)さんが腕をふるって、とれたて生の鱧を使い、鱧の湯引き、鱧吸い、鱧天、や新鮮な刺身、ちりめん丼まで出て、皆さん堪能されたようです。味人膳さんに感謝。

驚き!郡山地層の不思議とその恵み。

地質学者大木公彦先生の郡山野外教室。

郡山地区は一番高い八重山に南から湿った空気が当たり、多くの雨を降らせます。地層は粘土質で水を保水し、上質な水を絶え間なく田畑に供給し、甲突川に注ぎ続けているのです。おいしいお米ができるのも納得です。

この郡山一帯から北薩は今から約300~250万年前巨大な湖が広がっていたそうです。その後八重山が隆起し、湖水は南から抜け、少しづつの地殻変動とともに今の豊かな大地となったというわけです。驚くことに250万年前の湖底の地層がみられるのです。八重山の裾野、大浦地区で砂岩層、泥岩層、珪藻質シルト岩等、はっきりみました。250万年のですよ~!

この八重山の郡山地層が伏流水を蓄え、湧水を生みだし、甲突川の源流となって鹿児島市内を潤しているのです。 これって cool?!

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実は宝暦治水は薩摩藩の高い土木技術が・・。

実は宝暦治水は薩摩藩の高い土木技術が・・。

 

 

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南日本新聞5/27付け「南風録」をみて、我が意を得たりの気持ちです。永い間私共が主張していたことが認められたようなきもちです。

確かにこのお手伝い普請は悲惨な工事であり、多くの犠牲のうえの事業でしたが、一方で薩摩藩の土木工事技術の勝利でもありました。もともと、古くから中国からの移民のなかには色々な分野で高い技術者がおり、多く召し抱えていたといいます。

甲突川の大規模な川筋直しや国分の天降川の川筋直しになどにみられるように古い時代から高い技術を保持していたことがわかります。

幕府は大藩の力を削ぐだけの理由ではなく、土木技術の高さを知っていて命じたと思われます。

下の古絵図は義久が国分に移り住んだころの絵図です。国分の中心部を天降川が流れています。中ノ島は現在の舞鶴中学校、その島のちょっと上流に山形屋があります。この後川筋直しで、今の川筋に変えられたのです。

この絵図は一部分ですが、8mX10m位あり国分の婦人グループの労作です。

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ハーブとフルーツの農園

未だ未完成ですが、鹿屋市浜田海岸近く、小高い丘にハーブや幾種類かのフルーツの木を公園風に育てている農園があります。

いも菓子で有名なフェスティバロ社が所有しているそうです。いずれレストランとか施設が充実してくると、癒しのスポットになるでしょう。

今でも癒されますけどね!

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