2014/12/22 年末ギリギリやっとできました。年寄りの初心者の手作りですから、大目にみて下さい。この一年の締めくくりです。会報創刊全頁
ちょっと待った!ここにも産業革命遺産が!知覧の精錬所跡
知覧町、県道27号線沿い、豊玉姫神社から川辺方面へちょっと行ったところ、知覧中央浄化センターの傍、麓川河畔にそれはありました。明治末期から昭和10年まで稼働した、「宮内鉱山轟精錬所」の遺構です。明治中ごろに発見された赤石(あけし)鉱山で採掘された金鉱石をここに荷馬車で運んで製錬したということです。動力は水車、細かく砕いて水と混ぜて金を沈殿させ、最後は水銀を混ぜて高温で熱することで水銀が飛ばされ純金を採取する、という作業をすべてやっていたそうです。その後動力が電気に変わるや、役目を終えて昭和10年閉鎖となりました。元々ここは「金山水車跡」ととして、ひっそりと小さな記念碑がありましたが、高速道路の橋げたの部分にあたって、貴重な遺構の3分の1程度が発掘されました。関係者の熱意でそのまま保存されるようになったそうです。11月22日は一般公開でしたが、見学者の多いこと。整備して観光資源にして欲しいですね。
関吉の疎水溝と寺山炭窯跡に行ってきました。
恥ずかしながら、訪れたのは初めてでした。原口教授のツアーでした。登録予定の世界文化遺産、産業革命遺産の構成群の一つです。集成館事業の製鉄事業は大量の水と良質な燃料を必要としたのですが、下田の取水口から仙厳園まで延々8km引っ張ったわけです。元々関吉の疎水は元禄のころ、近辺の灌漑用水として使用されていたものを、斉彬が延長させて使わせたということです。取水口は静寂につつまれた、夏に行きたいところでした。
寺山公園の一角、森の中にひっそりと苔むして炭焼き窯はありました。近くには西郷隆盛が150名の学生と共に拓いた吉野開墾社の碑があります。碑文「きらすの汁に芋飯食い馴れ候」とあります。やっぱりせごどんです。
炭焼き窯は直系5~6m、高さ4mの石積みですが、試行錯誤の後の最後の3基目が残っています。樫や椎など堅い素材で白炭といわれ1300度の高熱を出せたそうです。昔のさつま人はスゴイ!
記念碑の碑文を読み解く原口泉教授
弥五郎どんはスゴイ!
城山決戦前夜、薩摩琵琶の響きに泣く
真珠湾攻撃の作戦は鹿屋で練られた。
- 真珠湾攻撃作戦は大西瀧次郎中将や源田実らによって海上自衛隊鹿屋航空基地の一室で練り上げられたということ、知ってました?それが現存しているのです。
- あれから来年は70年。悲惨な戦争を経験した日本は世界中に恒久平和を誓いました。今日の平和と繁栄は多くの犠牲の上にあるということは私達は忘れてはいません。それにしても世界中には、なんと紛争の多い事でしょう。日本も厳しい環境に置かれていますねぇ。
- 大隅には戦跡が未だ数多く残されています。上記の基地内の第1ビルの旧司令室、畑の中の掩体壕、民家の敷地内の地下壕電信司令室、民家の石垣に弾痕など、ほかにもあちこちに点在するトーチカ跡など。
- 上記の一部をめぐるバスツアーを企画しました。 永遠の0ツアー
- 真珠湾攻撃を極秘協議_130117_鹿屋海上自衛隊基地
清楚な鹿の子百合
秋目の古民家
茅の輪くぐりと夏そば
驚き!郡山地層の不思議とその恵み。
地質学者大木公彦先生の郡山野外教室。
郡山地区は一番高い八重山に南から湿った空気が当たり、多くの雨を降らせます。地層は粘土質で水を保水し、上質な水を絶え間なく田畑に供給し、甲突川に注ぎ続けているのです。おいしいお米ができるのも納得です。
この郡山一帯から北薩は今から約300~250万年前巨大な湖が広がっていたそうです。その後八重山が隆起し、湖水は南から抜け、少しづつの地殻変動とともに今の豊かな大地となったというわけです。驚くことに250万年前の湖底の地層がみられるのです。八重山の裾野、大浦地区で砂岩層、泥岩層、珪藻質シルト岩等、はっきりみました。250万年のですよ~!
この八重山の郡山地層が伏流水を蓄え、湧水を生みだし、甲突川の源流となって鹿児島市内を潤しているのです。 これって cool?!