実は宝暦治水は薩摩藩の高い土木技術が・・。

実は宝暦治水は薩摩藩の高い土木技術が・・。

 

 

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南日本新聞5/27付け「南風録」をみて、我が意を得たりの気持ちです。永い間私共が主張していたことが認められたようなきもちです。

確かにこのお手伝い普請は悲惨な工事であり、多くの犠牲のうえの事業でしたが、一方で薩摩藩の土木工事技術の勝利でもありました。もともと、古くから中国からの移民のなかには色々な分野で高い技術者がおり、多く召し抱えていたといいます。

甲突川の大規模な川筋直しや国分の天降川の川筋直しになどにみられるように古い時代から高い技術を保持していたことがわかります。

幕府は大藩の力を削ぐだけの理由ではなく、土木技術の高さを知っていて命じたと思われます。

下の古絵図は義久が国分に移り住んだころの絵図です。国分の中心部を天降川が流れています。中ノ島は現在の舞鶴中学校、その島のちょっと上流に山形屋があります。この後川筋直しで、今の川筋に変えられたのです。

この絵図は一部分ですが、8mX10m位あり国分の婦人グループの労作です。

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ハーブとフルーツの農園

未だ未完成ですが、鹿屋市浜田海岸近く、小高い丘にハーブや幾種類かのフルーツの木を公園風に育てている農園があります。

いも菓子で有名なフェスティバロ社が所有しているそうです。いずれレストランとか施設が充実してくると、癒しのスポットになるでしょう。

今でも癒されますけどね!

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薩摩川内市に再建された福昌寺

薩摩川内市に再建された福昌寺

明治の廃仏毀釈によって、島津宗家の菩提寺であり、1500人もの僧侶がいたという大刹曹洞宗玉龍山福昌寺は破壊され、今は島津家の廟所としてのみ、跡を残しています。有志が何度となく同地に再建を試みましたが、叶わず、明治31年現在の薩摩川内市に再建されました。当時のゆかりの物もだんだん回収されて往時を偲ぶことができます。本尊のうしろには開山住職石屋真梁が鎮座しています。門のあ・うんの仁王像は埋めてあったものを掘り起して運んできたという。IMG_1182[1] IMG_1180[1]

カメンカンサー島津都美の亀趺碑

カメンカンサー島津都美の亀趺碑

25代島津重豪の母都美の墓の脇にある石碑です。通称亀ん墓とか亀ん神んさあと呼ばれています。

福昌寺の重豪の石碑を一回り小さくした亀を台座にしています。都美は加治木島津家に嫁ぎますが、

夫の久門(重年)が本家を継ぎますので藩主夫人となり、重豪を生みます。

所在地 姶良市加治木町木田

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志布志・天水家の武家門

志布志・天水家の武家門

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巨岩をくり貫いて建てた珍しい武家門です。ちなみに、この天水家の庭園は国の名勝に指定されています。

志布志にはまだまだ新発見があります。

 

 

長島町にくまモン?

5/6  長島町フラワーフェスタに行って来ました。

巨大な「くまモン」が・・・ここまで攻め入ってきたか!

それにしても魚はうま~い!

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